その部屋はいつも独特な匂いに満ちていて、少しぼーっとすれば夢の世界に飛んで行ってしまいそうな感覚。

 本の香り……なのかな? よく分からないけど図書館の少し奥に入った時のあの雰囲気って言えば分かってもらえると思う。

 カーテンからは透過光が差し込み、薄暗い部屋はますます現実感を失う。

 その異空間にも似たその部屋の名前は図書準備室。

 どこの学校にもある少し傷んだ本やオモテに出るのを心待ちにしている本たちがズラリと並ぶ部屋。

 しかし、平均ど真ん中の高校の個性もない六畳間のその奥には誰にも言えない秘密があった。

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 私立咲明高校の図書委員会はそれぞれのクラスから出すのではなく、完全な有志によって運営されている。

 そのためそもそも委員が集まるか、真面目に仕事に来るか、などが一切不透明で適当な状況だ。

 有志の図書委員というワードに心惹かれ盲目であった私にも入学当初違和感はあったのだ。

 あまりにも先輩が少なすぎると。

 というか、先輩の姿は見えず顧問の先生に聞いてみたところ、どうやら最後の図書委員さんはこの春めでたく大学生になってしまったらしく。

 学校側も問題点は把握しているみたいなのだがこれで何年も運営が回っていたようなので今更改善する必要性を感じていないらしい。

 それもそのはずだった。人が一切来ないのだ。

 わが校の図書館はそのほとんどが何十年も前の小説や雑誌で占められ、おまけに図書別館なんて場所(門から一番遠い)に立地しているものだから存在を知らない生徒も少なくはないだろう。

 カップルや友達で勉強は当校自慢の談話室で足りてますしね。

 ベンチャー企業の休憩所のようなカラフルでパステルな空間は咲明の誇りらしい。

 いい悪いは置いといて私には分からない感覚ですからなんとも。

 果たして、当初は7人ほどいた新入図書委員も今や二人である。

 静かに小説が読みたい私にとっては夢のような場所だったが、そんな生徒は稀ということも知っていたし、仕事が無いのに何時間も拘束されるのは苦痛でしかないだろう。

 私だって気持ちはわかる。言い換えれば私みたいな人間がライブハウスとかに毎日通うようなものだろうから。

 うーんそれはきっと大変だなんだろうなぁ……。

 と視界が白くなっていくのをぼんやりと確認して私はハッとする。

 今は数学の時間。先生がカツカツとチョークを走らせている音がいつの間にか俯いていた私の耳に入る。

 文系にメーターを振り切った私は恐らくこの先使うこと(使えること)のないであろう知識の詰まった黒板をせっせと写し、小さなあくびをした。

 図書委員の実情や放課後の読書を思案するのは暇な時の癖で、教室で一切口を開かない私の数ある暇つぶしの一つでもある。

 それにしても熱くなってきたなぁ。

 またどーでもいいことに思考を飛ばす。

 すでに夏が顔を覗かせ教室も半袖の生徒が見えるようになってきた。

 私は生まれつき肌が弱く真夏でも長袖を着なければならないため、透明感と疾走感のある袖の短い制服に少し憧れている。

 私もいつか見たあの小説の主人公のような青春ってモノを感じてみたかったり……するんですかねぇ……。

 ジジババみたいな感情が沸いてきてしまった。

 ブンブンと私は首を振る。

 でもまあもう一度自由にステータスを振っていいよと神様に告げられても今と似たキャラメイキングになる気がする。

 私はどうやらこんな何もできない私を一応気に入っているらしい。

 少しの熱を帯びた柔らかい風に身を任せ、私は静かに身を机に伏せ今度こそ意識を切断した。
 


 目を覚ますとそこはタイやヒラメが舞い踊る海底世界……なんてことはなく斜光が差し込む一人ぼっちの教室だった。

 寂寥感に駆られることはない。だってこれが私の日常だから。

 心は常におしゃべりで、周りに人がいようといまいと一人きり。

 咳をしても一人だし、おなかが鳴っても一人。

 昔……その昔は外で走り回っていた気もするけどいつからこんな性格になってしまったのだろう。

「あちゃー、でこが真っ赤だ」

 私は椅子から立ち上がり大事な前髪を整える。

 目が半分ほど隠れていないと落ち着かないのは私の性というものだ。

「さて……と」

 机の中の荷物を鞄に押し込み図書準備室へと向かう。

 図書別館はドラマやアニメでよく見る古文書などが置いてある洋館のような外観で、夜にホラー映画を撮ったならばそこそこのクオリティのものが完成するのではないか。

 本当に人を寄せ付ける気があるのかと疑いたくなってくる。

 軋むドアを開けヨーロピアンな内装とはしごが必須の本棚の間を通り抜け目的の場所までたどり着く。

「こんにちはぁ……」

 私はその中にいるもう一人の図書委員に挨拶をする。

 ……本に夢中で私の声が聞こえていないみたい。

 彼の名前は柏崎恵吾。

 背が高く顔立ちも整っている彼はこの中世ヨーロッパを彷彿とさせる空間に完全に溶け込んでいる。

 今思えばなんでたくさんいた図書委員が減っていったのかが不思議だ。

 彼目的で残るという選択肢もなきにしもあらずなのに。

 まあ、そんなこと言ったってやめたものは仕方ないですし考えないでおきますか。

 図書委員の最大の仕事は年に一度ある本の搬入で、それ以外の時は大体この準備室でゆっくりと過ごしている。

 本の貸し出しなんてどうやるか忘れてしまいそう。

 そのほかには少し不思議な仕事があるのだけど。

「コホン……」

 もう一度柏崎君に声をかける勇気のない私は一つ咳ばらいをしていつもの定位置につく。

 すると私が動いた気配を感じたのか柏崎君は本を読む手を休めこちらを見上げる。

「本に夢中で気づきませんでした。こんにちは、柳さん」

 この人が喋ると周りに爽やかで穏やかなエフェクトがかかって見えるのは私だけだろうか?

 本当になんで図書委員が私以外に残らなかったのだろう。

「こ、こんにちは……。今日も頑張りましょう……」

 一体何を頑張るのかは自分でも定かではなかったが、口をついてしまったものは仕方がない。

 会話はこれだけ。いつも通り私と柏崎君はそれぞれ持ち寄った本の世界に飛び込む。

 彼との距離は部屋を横断する長机を挟んで3m。話し合ったわけでもなくそう決まった。

 ページををめくる度に文字が濁流のように流れ込んでくる。

 脳が、体がどんどん深い海へ沈み込むような感覚がして景色が塗り替わる。私の世界が構築されていく。

 思い通りに動く体は時に俯瞰で世界を見下ろし、また時に物語の誰かへ乗り移る。

 12万文字で緻密に計算された活字が私の感情を計画通りに揺さぶるんだ。

 ボーイがガールとミーツしても、急に殺人事件が起こっても、見ている現実と乖離している世界がそこにあっても優しく私を迎え入れてくれる。

 たまにクセの強い小説もあるんですけどね……。

 ともかく。ここが私のもう一つの世界で、誰にも邪魔されない唯一の居場所なのだった。


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 ”もう一度確認しろ、私は艦上戦闘機乗りだ。

 敵を屠り、我が軍を勝利へと導くのが私の使命。

 何人もいた戦友の大半は海へと沈み二度と還ってはこない。

 だが、敗色濃厚? 絶体絶命? 知ったこっちゃない。

 愛機のエンジンの音は散っていった者への鎮魂歌。

 鍛えぬいたインメルマン・ターンは私たちの存在証明。

 幾多の魂を乗せたこの機体への期待を裏切る訳にはいかない……!

「こちらiz-1。全機に次ぐ! 残存戦力全てを持って敵本拠地にに奇襲を仕掛ける。いいか、俺らが戦局を変えるぞ!」

 私が半ばかすれる声をありったけに、ふらふらと、しかし訓練された編隊飛行を組む仲間たちに語りかける。

「了解! キャップ、ルートの確認を!」

 燃料はすでに枯渇しかけ、メーターは私たちが還ることはないと知らせている。

 一度母艦に戻り補給する道もあった……。

「いや、そんな道があるわけないよな」

 私はがたつく機体のなかで首を振る。

 金城鉄壁ともいわれる敵基地への突入を賭けた前哨戦、自らの命と引き換えに数倍の敵航空機を押し返し、千載一遇の活路を開いた彼らの魂を無駄にする気か、と。

 ポケットからキーホルダーを取り出し、いつかの誰かとの約束を思い出す。

『誰かに殺されるなら、君がいいな……なんて』

 ―――運命ってもんもあるのかもしれないな。

 ただし負のバイアスに、と付け加える。

 あの時助けた少女が今となっては命を奪い合う宿敵とは現実は奇なり。

 あえて言うならこちらだって同じ気持ちだ。

 大きな戦いがある度に脳裏にフラッシュバックする味方の最期の声も今日ばかりは穏やかに、私の網膜に今は存在しない青春の1ページを映し出す。

 そのイメージを断ち切り、水平線に目を凝らせばぼんやりと島影が。

 一度深呼吸をし、最期の指令を感情交じりに叫ぶ。

「全機高度降下! 我らに死ぬことは許されない! ここまでよくやってくれた。最後の命令を出す。……これより第35航空戦隊を解散とする!」

 私がこの攻撃を覚悟したと同時に決めた『第35航空戦隊』最後の命令。

 無線の奥から困惑の声が届く。

「言い方を間違えたな。……この死地を前に、死ぬ気の無いものだけついてこい!」

 一瞬の静寂。そして。

「うぉぉぉぉぉ!!!」

 味方のボルテージが最高潮に達する。

「おいおいお前ら、今帰っても軍法会議は無いんだぞ?」

 本心からこいつらを馬鹿だと思った。

「いやいや、キャップ? この戦隊が解散したってことは役職決めがまたあるってことじゃないですかぁ?」

「はは、だがそうそうキャップの座は譲らんぞ?」

「うるせぇ、俺が次期キャップだ」

 ごちゃごちゃと、明日の朝ごはんの献立を決めるように敵領域へと迫っていく。

 アドレナリンが体内を駆け巡り、緊張が最高潮に達しても気負いすることはなく悠々自適に飛び込んでいく。

「準備はいいか? ……いや、どうせここからは不測の事態ばかりだ。……ま、例え僚機が撃ち落されようとも、なぁに、死んじゃいねぇ。また明日会おう」

海面間際を隠密飛行し、気丈を装い語りかける。

「さぁ、行くぞ」”

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「――い……。おいって!」

 迫りくる機銃の網をかいくぐれ、限界を超えろ。

 ―――直掩機!? まぁ、さすがに読まれるよな。

「やな―……。おーい……」

 こんな時に限ってあいつらの断末魔が耳に響く。

 直後、私の戦闘機が原因不明の振動を―――って。

「ふぁ……?」

 展開していた世界がプツリとシャットダウンされ、一度目を瞬かせるとそこはいつもの洋室で、私は軍人でもなんでもなくただの女子高生だった。

「あー! もう! 何回お前らを起こしに行けばいいんだよ!!」

「……おはようございます??」

 別に寝てたわけじゃないと思うけど。

 目の前で憤慨しているのは図書委員会顧問の渡辺さくら先生。

 新任の方で4月頃は「一緒に図書館を盛り上げていこうね!」みたいなテンションだったはずなんだけど。

「はいはい、もう閉館時間だ。帰りの支度しな!」

 こんな口調はこの図書準備室でしか見られない。

 普段はいかにも新任の先生って感じの雰囲気を出してるからなぁ。

 やっぱりこれが素なのだろうか。いろいろ申し訳ないです。

 また荷物を鞄に押し込めながらまだ向こうの世界に酔っていると、頭一つ抜けた柳君が近づいてきた。

「……っ」

 コミュ障特有の個人空間防衛本能が発動し私は一歩引いてしまう。

「驚かせちゃってごめんね。すごく汗かいてたからハンカチ貸してあげようと思って」

 はたから見れば拒絶の反応を見せたのにも関わらず逆に謝られてしまった。

「ううん……あまり慣れてないから……嫌なわけじゃ、ないよ。ありがとう」

 柏崎君からピシッとアイロンのかかったハンカチを受け取る。

 こんなに気軽に他の人のハンカチを使ってしまっていいのだろうか?

 人それぞれそういう感性が違うものだから柏崎君の何気ない行動にいちいち考えさせられてしまう。

 家族のものなら気兼ねなく使えるのに……。

「どういたしまして」

 優しく微笑む柏崎君は口数こそ少ないが、周りにすごく気を配ることができる。

 それでこのルックスで本来ならモテないはずはないのだが……。

 まぁ、私に俗世の恋愛事情など触れられるものでもないので気にしないのが吉か。

「おいおい……呼びに来させといて目の前でイチャイチャとか……。ほんといい加減にしろよお前ら」

 少し息が苦しくて、フワフワした空間に楔をうつ先生。

「化けの皮が剥がれすぎじゃないですか?」

 柏崎君がすかさずツッコむ。

「……余計なお世話だ。大体な、毎回毎回なんで閉館時間になってもカギを返しに来ないんだよ!」

「あはは……アラームはかけてるんですけどね……」

 私のスマホにも柏崎君のスマホにもアラームが鳴動したという旨の通知が残っている。

「……っ、ハァ……」

 あ、何か言おうとして諦めた。

「ま、健やかな学校生活をサポートするのも先生の仕事だ。精々頑張りな」

「ありがとうございます」

「あ、ありがと……ございます」

 柏崎君が爽やかに返したのに続いて私もお礼を言う。先生の顔はめんどくさいと諦めが織り交ざった何とも微妙な表情だった。

 私たちが下校する時間は一般の運動部の生徒より遅い。

 それはまったくもって私たちのせいでしかないのであるが。

 私たちは長くなった陽を背中に受けながら校門までの道をおっかなびっくり歩いている。

 何におびえてるって、そりゃあこんなに光に溢れた人と隣で歩いてるなんて噂がたったら私は生きていけない。

 と、思いながらも柏崎君は学校で唯一話せる友達(なのかなぁ)なので少しでも一緒にいたいという感情がある。

 変な意味じゃないから、別に……。そういうのよく分からないし……。

 なんでだろ、急に恥ずかしくなってきた。

「熱くなってきたね」

「……ぅえ?」

 私が内心百面相をしていると唐突に柏崎君がつぶやいた。

 びっくりした、心が読まれたかと思った。

 柏崎君もいまだ冬服で、制服を着崩すこともせずブレザーのボタンをしっかりと留めている。

 ただ、そんなことを言われても私には返す言葉がないので少し俯くように頷く。

 普通の赤の他人にはこんな微々たる反応で気づいてもらえるわけはないのだが、なぜだか柏崎君には気づいてもらえるという確信がある。

「ほら、あの部屋でもすごく暑そうだったよね?」

「あは……お話にすごく集中していて」

 目の前の男の子のように私も精いっぱいの笑みを浮かべてみる。

「へぇ、そこまで集中するって一体どんな話だったの?」

 どんな話……文章に起こすなら『現代の人間関係やキャラと過去の戦闘装備を見事に融合させた新感覚ミリタリー小説』と綺麗に繕うところだが、やはり私の口からはそんな言葉は出てこない。

 だから代わりに、

「また今度貸してあげますよ?」

 質問の回答になっていないそっけない返答になってしまう。

「うん、楽しみにしてる」

 それでも本当に楽しみな表情を見せてくれるものだから思わず胸が苦しくなる。

 柏崎君のクラスでの振る舞いを見たことが無いので推測にはなってしまうけど、私といるときはずっと私のペースに合わせてくれているように感じる。

 ――――それが少し嬉しくて、同時に少しの距離を感じるのだ。

 もう夏か。橙かかった空に目を細めてひとつ、小さなため息をついた。
 


 1章 兄と妹とすれ違うループ

 私は兄弟喧嘩というものを経験したことがない。
 
 というのも兄弟姉妹がいないので発生しようがないからだが。

 だから今回のお話は少し私に理解できないものになった。

 私の生活を羅列したならば、……図書委員の時間だけなのだ。
 
 羅列になっていないじゃないかというツッコミは押さえていただきたい。
 
 なにせ起きる、入浴するなども含めていいならば精巧に精密に説明を入れるが、私が自分で意識して生きている活動はこれだけだったからだ。
 
 私の朝は早い。両親は遅く起きてくるので朝ごはんは必然的に担当になってしまう。
 
 その分片づけは分担しているので悪くない条件だが。

 両親が朝遅いのは両親で夜色々勤しんでるから。

 まだ私を子ども扱いして。聞きたくないし見たくもないのに気になって眠れない。

 何をしてるかって……察して。

 とにかく家庭環境はいいのか悪いのか、私がいてもいなくても多分どっちでもいい。

 学校でも家でも私は無害で透明な幽霊なのだ。

 別にそのことについて私は何かを思うことはないし、おしゃべりな心はたまに小説なんて書き留めてごまかしてしまえばいい。

 自分一人の世界は楽だ。多分ね。

 他の環境を知らないから。知らなくていいんだ。

 そんな幽霊は一人いつもの暗い帰り道をとぼとぼと歩いている。

 今日は珍しく私たちでカギを戻してまだ6時を回ったばかり。

 周りには明るい声が響き街を回している。

 気分が落ち込んでナイーブになることくらい許して咲明市。

「もう……! お兄なんて知らない!!」

 ……なんて、透明人間な不幸な私に陶酔していると遠くで女の子の叫びが聞こえた。

 キキィィィッ!!

 刹那、その方向からブレーキ音。

 想像力だけは取り柄の私は何が起こったのか察知した。

 きっと女の子と車が衝突しそうになった……した?

 幽霊の私には関係ないが。

 いくばくか経った頃だろうか。救急車のドップラー効果がやけに近くで感じられたのはきっとこの事故のせいじゃないと願おう。
 そんな偽善にも似た心配事は、明日の課題を解いているころにはこれっぽっちも残ってはいなかった。
 

 その事故が私の些細で気にも留めなかった願いを裏切っていたことを知ったのは次の日の朝、教室に入った……むしろ通学路から異様だった。

「昨日そこの入ったとこでさ「マジマジ、ヤバいブレーキの音だったんだって!「なにそれエモい「あれ、確かその子のブラザーがここ通ってたんじゃ「それはヤバい「それって2年の「ヤバい「確かにヤバい」

 ちょくちょく聞こえてくるヤバいという単語はいつも通りの回線だったが、いつもはバンドがどうたら~とか、あいつの胸やばくね~とか様々な雑音だった通学路オープンチャットが今や一色に染められている。

 誰の胸がまな板だ余計なお世話だ。

 一人心の中でかますノリツッコみも白けていくほど今日の空気は悪いらしい。

 誰も気にしていないけれど何か気持ち悪い。

 私が事故の瞬間を聞いてしまったからだろうか。

 それともそんな音にちっとも耳を傾けなかった自分に鳥肌を立てているのだろうか。

 いずれにせよ、私は結局この事故と深くかかわることになる。

 ということをまだ知らない私はこのもやもやを吹き飛ばそうと暢気に鼻歌を歌っていた、心の中で。
 

 私がその部屋に着くとき、彼は常にそこにいた。

 柏崎君の素性、平たく言えば個人情報を私はほとんど知らない。

 私の紡ぐ物語の主人公なら「何組~?」くらいは容易く聞いてしまうものだが、相変わらず私の周りは透明な壁で覆われている。

 私がたまたま休み時間に図書別館に寄った時でさえ彼はそこで小説に没入していた。

 まあ、保健室登校って言葉をよく聞くぐらいだし図書別館登校があったって納得……するしかないか。もしかしたら不良生徒かも。

 人のことについて考えることが柏崎君案件しかない私にとってはこの考察は有意義な時間となる。

 ささやかな充足感に満たされながらドアを開く。

「こんにちは」

 もしかしてこれが今日話す第一声かもしれない。

 あとは……あくびしたくらいか。

 今日の彼はいつもと変わって右手には小説ではなく拳を握りしめ、何か来るべき時を待っているかのようで。

「うん、こんにちは」

 柏崎君の見つめる先は私ではなくドア、そこで私はさっさと察した。
 
――やっぱり今日ですか。

 それはこの部屋の最大の秘密。私と彼しか知らない秘密。

 私も小説を読む気にはなれず、柏崎君と話を続けるスキルもなく天井のシミの数を数える。

 古ぼけた洋館は耐震基準がどうとかで工事が入るみたいなんですがどうなんでしょうか。

 その話が5年前からあるという事実も一体如何なものなんでしょうか。

 ぴーちくぱーちく個人でマンツーマントークしていると扉を叩く音。

 柏崎君が冷静な声でどうぞ、と言った。

「なあ、助けてくれ」

 数週間ぶりの来訪者は開口一番我々に助けを求めてきた。

 服装は咲明の制服、性別は男、身長は概ね175㎝、しっかりとした体つきのスポーツ少年という印象か。

「ここで願えば助けてくれるんだろう? 正直神様なんか信じちゃいないが……」

 私はここまでであらかた予想がついていた。やはり……。

 ふむ……と頷く声が隣からして、柏崎君は立ち上がり直立のまま目をつぶり言い放つ。


「君の物語を聞かせてくれないか」


 こんなにも中二病臭い台詞もどこか儀式に見えてしまうから不思議だ。

 その表情は生気を抜いたような表情でただ語り手が動くのを待ち、どんな世界も受け入れる柔らかな笑みも垣間見えた。

 この部屋の秘密。それがこれだ。

 彼は少し、人と違う。

 そして狼狽えていた少年はポツリポツリと事の顛末を振り返る……。

「何故かはわからない……だからうまくは説明できないが聞いてくれ。俺は赤坂勇太、いまちょうど話題になってる本人だよ。俺が妹をあんな目に合わせた原因なんだ」

 きっと初めてこの状況に出くわした人は驚きで開いた口が閉じないだろう。

 私も最初はぽかーんと、ただ目を見開いてみているしかなかった。

 まるで信徒が神父に祈るように、もしくは懺悔をするように、西洋風の洋館が神々しさを増している。

 彼の元には人の後悔や絶望の物語が集まってくる。

 ソースがどこかなんて教えてはくれなかったが、彼独自の連絡網でここには追い詰められた人々が集まってくるらしい。

「もう何が原因だったかなんておぼえちゃいない。ただ、学校から帰ってきたら妹の機嫌がすこぶる悪くて。最後に何か俺が言ったんだろう。そしたらあゆみは……家から飛び出していった。ごめん、本当に何も覚えていないんだ。ただあゆみが轢かれる瞬間、刹那だったけどこっちを見た気がして。その画像が頭にこびりついて何も考えさせてくれないんだ」

 冬眠したかのように集中している柏崎君の代わりに私が恐る恐る声をかける。

「あの……それで、妹さんは……?」

「幸いなことに生きてるよ。ただ、生きてるだけだけどな」

 私は思わず息を飲んだ。私が耳にしたブレーキ音が安易に人の意識を刈り取っていったこと。

 一体私はあの時何を思っていたのだっけ。不幸な人間の話か。

「そ……うで……すか」

「おかしいだろ。なんでアイツなんだよ! なんで、俺じゃないんだよ……」

 最後には声は萎んでいきどうしようもない過去を嘆く。

 これまでのうのうと生きてきた私には掛ける声が見つからなくて。

 全てから逃げ続けてきた私にはこの場に立っている資格すらないと自分で認識する。

「昨日はアイツの誕生日だったんだ。全く……最悪の誕生日だった」

 この言葉を境に誰も言葉を継ごうとはせず、静寂の空間が流れる。

 1分ほどたってようやく柏崎君がゆっくりと目を開ける。

「言いたいことはそれだけかい?」

 上級生に対する態度とは程遠く、しかしまっすぐと赤坂に目を向ける。

「あぁ、俺は、一体何が悪かったんだ……」

 その目は動転という文字通り焦点を合わせることなく眼球が彷徨っている。 

「……しかと受け入れた。君の栞にしかと刻むのだ」

 柏崎君は一つ深呼吸をする。


「……後悔よ、絶望よ、今一度我に力を貸したまえ。Lesezeichen Streuen!!」


 部屋中を乱雑に千切られた栞が突如として現れ、舞う。

 その一枚一枚が徐々に何かの言葉を映し出し……否、空気中から吸い出していく。

 私の視界がぐにゃりと曲がっていく感覚が認識できて、そこで何もかもが途切れた。



    <bookmark world>


 特に嫌悪感はないが慣れない匂い、空気が私の感覚器官を呼び起こす。

 おじいちゃんの家に行った時のような感じ、と言えば分かりやすいかな。

(エプ……ロン?)

 私が身に着けているものに気が付く。

 視界に入り思わず手で触って確認しようとするが動かない。

 驚いて声を上げようとするが口が開かない。

 手どころかまばたきや末端の関節まで制動が利かない。

(……ふむ、今回はお母さん役……かな)

 私はもう3度目なのでだいぶ慣れてきた。

 柏崎君の秘密の力はこの通り『人に夢を見させる能力』

 それは人の物語の”栞”の位置まで巻き戻す能力。

 人は後悔や絶望をすると無意識にその地点に栞をするらしい。「あの時に戻りたい」「あの時ああしておけば」「やり直せれば」と。

 柏崎君は人から語られた物語の栞を読み取り、栞から現在の地点までの物語を全て”夢”にしてしまう。

 もちろんそれは夢なので未来予知のようなズルはできるわけもなく、元の世界の記憶は消失する。

 そのまま過去に戻ってしまったらまた後悔を、絶望を繰り返してしまう。

 だから人は忘れたくないことを栞に書き留める。

 それがこの時間。

 どんなくだらない夢でも時々断片的に覚えているでしょう? つまりはそういうこと。

 もう一度イメージを、その日をやり直す。

 ここは柏崎君が創り出した夢でも現実でもない間の時間。赤坂君が語った物語、私には額面通りの受け取り方しかできなかったのだが、彼の能力はその奥の詳細まで事細かに見抜く。

 何がいけなかったのか、言えなかったのか、言ってはいけなかったのか。それを見つける。

 私がエプロンを付けているのはそのためだ。多分。

 なにせこの世界は本来ならば誰も意識がない。操作権のないロールプレイングゲームのように”あの日”あったことをトレースしていく。

 きっとこのままならまたあゆみさんは兄に憤慨して道路に飛び出すし、やはりタイミング悪く車は飛び込んでくる。

 そしてまた図書準備室を訪ねてくるだろう。

 今度は前日に正夢を見た。という体験談付きで。

 何回でも、何回でも繰り返して、何回も妹が目の前で撥ねられて、その時赤坂君は正気でいられるだろうか?

 だから、私がいるらしい。

 誰もが傍観者のこの”栞の世界”に私は一度だけ干渉できる。

 ”栞の世界”に対する能力は、読書を突き詰めた人にまれに発現するらしく。

 私の場合感情移入で文字通り登場人物とすり替わっていることが多々あるからかな……。

 柏崎君は初めて私がこの力を使ったとき「あの読書力ならそんな気はしていました」なんて言っていたけど、私には強く誰かを助けたいなんて気持ちは存在してないし、この能力だって正直持て余してた。

 私や柏崎君の中にはこの世界の記憶は詳しく残らない。

 この前過去に飛んだ時も、「あぁ、飛んだみたいだな」くらいですし。

 身も蓋もなく言ってしまえば、この世界はどーでもいい。

 だけど、今回はなんとなく気分が悪い。珍しく何かしなくちゃという感情が沸いてきている。

 特に赤坂兄妹に思い入れなんてない。でも、何か引っかかる。

 見てもいないのに、兄に突っかかる妹の声が脳に刺さる、事故直前の妹の目が焼き付く。

 家族もいなければ関わる人間すらいないのに。

 そのはずなのに助けなければと考える私。

 仕方なく、ほぼ投げやりに、赤坂妹を救出するルートを探索する。

 このまま目の前の真っ赤なエラーで埋められた画面を潰し続けても埒が明かないと結論付けた。

 目の前ではいつもの赤坂家であろう光景が繰り広げられ、思考とは別に私もその輪に加わる。

(おそらく私の干渉能力を使えばあゆみさんを救出することは可能でしょう)

 突っ込んでくる自動車を手前で事故らすことも出来るだろうし、飛び出す予定だったドアを釘やらなんやらで開かなくすることだって出来る。

(栞の世界では、だけど)

 そう、それはあくまで栞の世界の話。

 赤坂君にとっては「予習」の栞の世界で何も学ばずにまた繰り返すことになる。

 夢から覚めたら誰かが超能力で救ってくれた、なんてありえないのだから。

 柏崎君はその無限ループを”栞が汚れる”と表現していた。

 なるほど詩的な表現だ。繰り返し栞に何かを書き込めば黒鉛やインクで汚れ元の本に悪影響を及ぼす。

 正気を失った赤坂君が現れ真っ黒に汚れた栞が図書準備室を舞いまた繰り返す、なんて光景は私ですら見たくない。

(まずは何故妹さんが怒って家を飛び出したのかじっくりと観察しなくては)

 恐らく赤坂君に何らかのヒントを与えるのとあゆみさんを救うのは並行は不可能……だろう。

 そんなルートがあったとして、一回の行動でどちらも達成するのはリスクが高すぎる。

 いくら私が「二兎追うものは一兎も得ず」という諺を嫌っていたとしても、まだ判断すべき時じゃない。

 だからとりあえず”現実世界の赤坂妹を救出すること”を第一目標にする。

 ひょっとしたら何もかも達成しなきゃいけないかもしれないけど。 

(今の日付は……ってこれ多分時計逆側だ)

 精一杯首を捻ろうとするものの願いは叶わず主婦の朝の時間は目まぐるしくメリーゴーランド。

(”一般的な”家庭の朝はこんなにもテンポが速いとは……)

 体力は一切使っていないはずなのに精神がガリガリ削られていく。

「いってきまーす!」

 元気な赤坂妹の声がこだまして、それに反響する家中からいってらっしゃい。

「あ、弁当忘れてる!」

 ほぼ真後ろにあったはずの弁当に気づいてあゆみさんの元へ。

 私の目に弁当なんか見えてなかったのに……すごいなお母さんパワー。

 もしかして今ので干渉能力使いきってしまったのではないか?

 それにしても平和すぎる。家庭内不和は一切見当たらないし、赤坂兄妹に問題点などない。

(……やっとカレンダーが視界に入った。今日はあの事故の日の前日か……)

 つまり今から大体一日半までに答えを出さなくてはいけないということか。

 平和的な赤坂家の中、一人これまでにない程のタスクを抱えた私は干渉して家事をスキップしてやろうか、なんて考えるのであった。
 


 家族3人全員を見送り10時を回ったところでささやかな安息が訪れた。

 ワイドショーをつけリビングのソファーにべたーと寝転がる。

(まずい、何も問題がない!)

 ほんわかとした空間と裏腹に焦っていく私。

 どこにも違和感が見つからない、手の打ちようがない。

 ぼーっとしてきた視界の中で私は必死に対策案を探す。

(こんなときに柏崎君がいたらなあ)

 彼ならきっと何やら意味深な助言をしてくれるに違いない。

 柏崎君も赤坂君もこっちの世界の誰かに乗り移っている……赤坂君はもちろん赤坂君なのだけど、柏崎君も私を見てはいたのだ。

(登場人物の編成的に多分赤坂父あたりに乗り移ってると考えるのが妥当か)

 今のところ赤坂母→私、赤坂君→赤坂君、赤坂父→柏崎君と仮定しておく。 

 当然彼には干渉能力はないので見ているだけできっと気楽にあくびでもしているのだろう。

(半強制的にこっちに飛ばしておいて高みの見物ですか……)

 私の他力本願な思考が大体3周位するともう視界がぼやけてきた。

 ワイドショーとソファーと初夏の陽光……。

(これはサボりではない、睡眠学習だ……)

 自分でも謎な遺言を残し、私はしっかりと深い学習に入った。


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  その夢の中の私、正確には夢の中の夢の中の私は笑っていた。

  ぼんやりとして見えない友達っぽい人たちに囲まれて大声をあげて笑っていた。

  私の記憶の中に世にいう爆笑をした思い出は一切なく、なんとなく奇妙だな、と思った。

  その夢はシーンをカットするように夏の思い出を次々と映し出す。

  前髪を上げた私が男女で砂浜で遊ぶ、都会へ繰り出す、放課後教室で駄弁る。

  そこは私の知らない景色でしかしリアリティのある夢だった。

  なんだか、別の世界線の私を見ているような、そんな、夢だった。

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 自暴自棄な責任放棄タイムから復帰すると私の体はすでにてきぱきと動き出した後で、そこには家族団らんの夕ご飯の食卓があった。

 精神的に苦しい家事タイムをパスできたのは嬉しいけど時間が飛ぶという経験に少し気持ち悪さを感じる。

「ねぇねぇお兄、アタシバスケ部でユニフォーム貰ったよ!!」

 あゆみがずっと言いたかったばかりに開口一番話題を切り出す。

「中一の6月でそれはすごいな。俺が軽々超えられるのちょっと悔しいけど」

「でも、お兄もすごいって知ってるからだいじょぶよ」

「ふふふ、勇太も負けてられないわね」

 な、なんか絵にかいたアットホームだ……。

 この後きっと全員でプロ野球見て声出して応援するんだろうなぁ……。偏見だけど。

 つつがなく晩餐は進み、もはや栞の世界の突破口を見出すことすら忘れていた。

(ほわぁぁぁぁ……)

 私はただ、”普通”の家庭に見とれていた。

 贅沢は言わない、こんな団欒な空間が欲しいわけじゃない。

 ただ、私の気持ちが、私の声が届く、そんな居場所が欲しかったのだ。

 これ以上考えると涙が溢れそうなので考えるのをやめた。

 別に私は不幸なわけじゃない、ないものねだりをしてる馬鹿なただの女子高生だ。

「ごちそうさま!!」

 私が一人欝に陥ってるとはっきりとした声で赤坂君が食事の終わりを宣言した。

 誰の目にも明らかな幸福そうな発声。

 そんなに今日の夕ご飯が美味しかったのかな。嬉しい限りだ。

 まぁ、私の意志で手は動いてないんですけどね。

 手の感覚はあるのに、主観なのに俯瞰……言葉で言い表せない奇妙な体感。

(うーん、多分理由は他にある?)

 さすがに料理の腕が突然上がるわけでもなし……。

(……女か)

 私の勘……正しくは私が乗り移っている赤坂母からの直接のリンクによって私に電流走る。

 ちらっとあゆみの方に目をやると私と同じようなことを感づいたようだった。

(やっぱりそういうのってバレるもんなんだなぁ)

 だからといって物語にありがちな「お兄ちゃんが誰かに取られた」みたいな感じでもないし。

 本当にそんなことを思う妹がいるかどうかも不明ではあるが。

 ただ、やっと今回の問題の掴みどころが現れた感覚はあった。



「母さん、ちょっと相談があるんだけど」

 来た! これが噂に聞く母息子恋愛対談!!

 私は思わず食器を洗う手を止めた。

 まぁ止めたのは私じゃないんですけども。

「ついに勇太にも彼女ができたのね……」

 しみじみ感じいる赤坂母と私。

 いやいや何を母目線になっているんだ私は。

 対してポカーンと口を開ける赤坂君。

 何を言っているんだとばかりにあんぐりと。

「俺に……彼女……??」

「そうよ、今日はなんだかいつも以上に幸せそうだったでしょ? 男子高校生で幸せなコトってそれくらいしかないじゃない。明日の朝は赤飯の予定なのよ」

「なんじゃそりゃ」

 よくよく考えてみれば穴だらけの理論に魅せられていたのか私は。

 純粋な本能としての呼びかけ、いわゆる勘というもののみの判断に思考を任せていたのか。

(そりゃ幸せの1つや2つくらいあるよね、人間だもの)

 自然と赤坂君が私の隣に並びしれっと洗い物を手伝ってくれる。

 彼の意外な一面が見れて少しドキッとした。

 赤坂母の主観から見れば親孝行な息子だが、私の目線で見れば気が利く長身同級生で。

(私じゃなきゃ惚れてるなこりゃ)

 恋愛観についてはお婆ちゃんのからっからな私はどこか一歩引いてみる癖があった。

 それにしても困った、またとっかかりから見つけなきゃならないのか。

「ありがとう、あ、そこの食器はあの棚、二段目」

 ひとまず洗い物タイムに入ってしまったので私もここで休憩だ。

 それにしても休憩してばっかりで本当に大丈夫なのだろうか。

 勝手に寄せられた期待だが柏崎君の要望を無下にはできない。

(ん、もし私がいなかったら、この仕事はどうなるんだろう)

 私がいなかったらこの世界に干渉することはできないわけで、柏崎君がいなかったら私の能力は一切生かせないわけで。

「……で相談なんだけどさ」

 何かこの世界について有益な推察が出そうという所でさらに最重要なワードに意識を戻す。

 思わず唾を飲んでしまう。いや意識の中の私が。

 赤坂君は戸棚に皿をしまいながら言う。

「明日、あゆみの誕生日じゃん? だから家でサプライズパーティを開きたいんだ」

(シスコンか!!)

 思わず叫んでいた。……今時中学生の妹にサプライズパーティって……。

「いい考えだわ。もう少し詳しく教えてくれる?」

「んー、友達の妹があゆみの親友でさ、それでいろいろ」

 それなら頷ける……のか?

「ふーん」

「明日の7時からでどうかな?」

 パタンと棚を閉めてこちらに向き直る顔は少し赤く、やはり恥ずかしい相談をしているという自覚はあるようだ。

「もちろんいいわよ。だけどこっちも準備があるから人数は教えてね」

「……さんきゅ」

 安堵の表情を浮かべ部屋に戻っていく赤坂君があゆみさんを傷つける?

 ―――――断じてありえない。

(それともまだ回収していない鍵があるのか?)

 何か掴んだかと思えば軽くあしらわれる、藁さえも掴めない実態が見えない謎に再び頭を抱えるのだった。

 さすがに野球観戦とはいかないまでも生活リズムの被った家族はそれなりに支えあい、11時半には全員床に就く。

 私の寝室は赤坂父と同室であった。

 ふむ、どこの家庭も夫婦は同じ部屋なのかな? 知らないけど。

 私にとっては初体験だけど、いつも通り二人は一緒のベッドに入る。

「ねぇ、お父さん。今日勇太があゆみのサプライズパーティ開こうって言ってきたんだけど」

「いいことじゃないか。それがどうしたんだい?」

 二人は話をするために向き直る。

「うん、私はあなたと出会って、好きになって今までいろんなことがあって、子どもも生まれて、私にお母さんなんて務まるのかななんてことも思ったけど」

「うん」

「今日そんな提案されてさ、私とお父さんの子どもはこんなに立派に育ったぞって。思わず勇太の前で泣いちゃいそうになっちゃった。私、あなたと出会えて本当に幸せ。それだけ」

 恥ずかしくなって寝返りを打つ。目を閉じてそのまま眠りに就こうとする。

 すると逃がさないとばかりに後ろから抱きしめられた。

 体温が上昇していくのが感じられる。

「俺も、すごい幸せだよ」

「うん」

 お腹のところで回された手がそのまま体を登っていき私の胸にまで達する。

「久しぶりに、ダメかな?」

 耳元で囁かれた言葉に抵抗する語句は見つからず私はその指を受け入れる。

 ん、何か忘れてる気が……。

(……私はこの人を柏崎君が乗り移ってると断定し、た。……っ!!!) 

 いつものトラウマの風景として俯瞰にも近い感情で眺めていた脳が急に回転しだす。

「んっ、ああっ、キス……激しっ!」

 私は首を捻り、彼の、柏崎君の舌に理性をからめとられていく。

 彼も見ているであろうこの光景に私も疼いてしまう。

「雅美、大好きだよ」

「やあぁ……そんなこと言ったら、んっ……」

「はぁ、はぁ……可愛いよ……」

 いつの間にか彼の指は下腹部へ。

「んんっ、へあぁっ……」

 二人はまた向き合いお互いに愛を確かめ合う。

 私は悶々としたまま眠れずに朝を迎えることになった。




(あれは初体験にカウントですか?)

 私の脳内百人会議は50:50で議決は議長の私に委ねられた。

(私と柏崎君は同じ感覚を共有したと……)

 またポッと顔にライターが点火するが、頭を振って揉み消すことすらできず、いっそ気持ちよくなることすらできず欲求不満もいいとこな半殺し状態だ。

 後にも先にも例がない「代理での性行為」というパワーワードに私王国の全権は懊悩するしかなかった。

 そんな国を揺るがす一大議決を前にして。

(いや、私には仕事があるんでした! 秘義アト・マワーシ)

 自分でも謎な呪文を唱え、第3回私王国百人会議は議長の逃亡という結果に終わった。

「ごはんだよー」

「ん」

 相変わらず今日も我が家は平和で、まだ特に問題は見つかっていない。

 の、はずなのだが。

「……」

 あゆみの様子がいつもと違う。もちろんそれは今日が誕生日ということもあるのだろうが、どうもそわそわが隠しきれていない。

(何か嬉しいこと……じれったい? どっちだろう)

 誰かの感情の機微を読み取るなど私には経験がないのでこういう時にてんで役に立たない。

「勇太、ごはん中にスマホを触るのはやめなさい」

「んー。ごめんあと少し」

「……」

 昨日の会話の傾向からいくとここであゆみが何かしらの反応を見せるはずなのだが、今はただじーぃっと赤坂君を見ている。

 赤坂母もサプライズパーティについての連絡と知っているためあまり深くは追及せず会話が止まる。

(空気は悪くないんだけど噛み合ってない感じがするな……)

「……ごちそうさまっ、少し早いけど学校行ってくるっ」

 突然バッっと立ち上がり口角を不自然に上げて食器をキッチンへと持っていく。

 あゆみが私でもわかる”いつも通りを装って”ダイニングを後にした。

「……あいつどうしたんだ?」

「まぁ、お年頃だしねぇ……」

 この後家を飛び出すという結末を知らない彼らは思春期の不安定さという結論をつけた。

(違う、違うんだ。決してこれが自然じゃない)

 私にとってはやっと解くべき謎が出現した。スタートラインに立ったところだ。

(このままじゃ確実にあの日を繰り返す)

 私はこの兄妹にどこかシンパシーを感じて、絶対救うと決めたんだから。

 無関心な時は寝てればいい。でも自分から首を突っ込んだんなら……話は別だ。

(これは物語だ、悲劇の物語だから。無限に本を読んできた私にハメれないテンプレートは、ない)

 現実は小説より奇なりといえどここは現実ではない。

 結末と出来事がすでに定められた物語の栞の世界だから。

 それなら私の専門分野。膨大なテンプレートを枠にはめてこの物語を読解するまでだ。

 そしてオチは私が創る。栞に刻み込む。

 タスクが明確に見えてきて仕事が回りだした。私は静かに刃を研ごう。

 激動の一日が陽気なお日様とキジバトの愉快な独唱と共に始まる。

 とは言え徹夜明けの私の体はロクな思考を妨げる。

 昼のターンはスキップでいいだろう、どうせ何も起こりはしない。

 私は、どうこの世界に干渉しようかとうすぼんやりと考えながらスキップボタンを押す。


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  ロード中の懐かしいキュルキュル音は私が持っていたDSPからの音だった。

 「おま……そこで粉塵使ってんじゃねーよ!!」

 「悪い……悪かったから叩くなって!」

  私は相変わらずリア充ライフ、モンスターを狩りながら放課後の学校。

  胡坐をかいて机の上に座り男友達とモン狩り。

  中学に勿論ゲーム機など持ち込んではいけないが、青春の名のもとにはそんな制度は存在しない。

  HPが残りわずかな私は範囲外で範囲回復アイテムを使われたことに対して憤慨していた。

 「いける、いける、いよしゃー!!」

  ヘーイ! ウエーイ! と順々にハイタッチを交わしていく。

  そんなありえない夢の視点はぼやけた俯瞰で、彼らの声がどんどん遠くなっていく。

  いや、これは誰かの主観……? ならば私は誰だ?

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(ん、また変な夢を見た。栞の世界の影響かなぁ……)

 私はゆっくりと瞼を上げる。

 まだ午後二時、今から作戦を練っても十分間に合いそうだ。

 昼のバラエティ番組が美味しそうな料理を映し出し、またなにやら難しい話を戦わせている。

 話を一度整理しよう。

 まず、ここは前述の通り栞の世界。夢と現実の間のカンニングの世界。

 私はその世界に一度だけ干渉できる能力を持つ。

 さしあたって現在重要な課題は、『あゆみさんの心境』と『介入の方法』

 この二つを解けたならば恐らく、きっとうまくいく。

(まずは介入の方法からですかね)

 あゆみさんの心境に関しては実際観察しないとどうせわからない。

 それならまず私のこの切り札をいつ、どうやって切るかのプランを立てておかなくてはならない。

(くっ……ふかふかのソファーが凶悪すぎる……)

 継続的なソファーからの精神攻撃を凌ぎながらいろいろな物語の道を組み立てていく。

 そもそも乗用車からあゆみを救うルート、手紙で事故のネタバレをするルート、事故の後のアフターケアに切り札を取っておくルート。

 アリの巣のように分かれる器用な思考回路を私は持ち合わせていないため一つ一つゴールと道を建設していく。

 それでも、私のワンアクションでこれだ! となる決定打は見い出せない。

 自動車からあゆみさんを守って? 何も得れず現実に戻るだけだ。

 カンニングペーパーの書き置き? それは栞の世界だけで俺TUEEEするだけじゃないか。

 事故が起こってから対応するか? 残念でした次頑張って、か。冗談じゃない。

 私は意外と欲張りさんなので、できるだけ赤坂君が悪夢にうなされないような道を描きたい。

 そう、幻肢痛という言葉を聞いたことがあるだろうか?

 四肢を切断した患者の”あるはずのない手足が痛み出す”というものだ。

 この栞の世界で妹を目の前で失った痛みは確実にファントムペインとして現実に影響を及ぼす。

 あゆみさんが家を元気に飛び出して行く度、家の前を乗用車が通る度、あるはずのない記憶が赤坂君を襲うだろう。

 きっと赤坂君は妹と引き換えなら本望だと言って生きていくけど、私はそれを許さない。

 この世界に来たときは現実を守れればおっけーという基準だったけど、これが感情移入ってやつ……かな。

 私でさえなぜこんなにも必死になっているのか分からないが、この件に関しては一切妥協ができないのだ。

 目標:問題の根本的解決&あゆみさん救出

 自分の頭のメモ帳の一番目立つところにそう大きく書き込む。

 攻略目標が二つに対して私が取れるアクションは一つだけ……。

 訓練されたソシャゲユーザーでも大激怒の鬼畜難易度だ。

 あゆみさんを救出する動作と赤坂君への助言……。

 未だ最大の変数、あゆみの心境が未定義のため有効な策が出てこないな……。

 多分十中八九不機嫌、とはいかなくても負の感情だろう。

 それくらいわかる。だが何に対して怒っているのか見当もつかない。

 私は一人の主観でしかこの世界を見ていないから、もしかしたら裏でこの兄妹はいがみ合っているのかもしれない。

 賭けにはなるがあゆみさんの変数を定義することを最優先にするか。

 準備するのに越したことはないと言えども一瞬の仕事のための準備の量などたかが知れていて。

(……あと1ピース、その前にまた暇な時間かあ)

 こんな状況でも久しぶりにゆっくり見た夕方のドラマは少し面白かった。

「ただいまー!!」

 玄関を破るように飛び込んできたあゆみはすでに朝のマイナスなオーラは纏われていなかった。

「おかえり、学校でなんかあったの?」

 それにしてもあゆみスマイルがいつもよりピカピカしてることに気が付いたのか赤坂母は問う。

「あー、うん。みんな私におめでとうって言ってくれたの!」

 手提げカバンからいくつかの便箋を取り出しこちらに自慢する。

 その中の手紙には可愛い丸っこい字で祝いのメッセージが綴られていた。

(これで学校が原因の線は……ナシと考えよう。私より1000倍充実してそうだし)

 いじめられてる側がいじめを隠すというのはよくある話だけど、これでいじめがあったなら手が込みすぎている。さすがに。

 というかもうそれなら私は死んだほうがいいレベル。あ、幽霊だった。

「でも、お兄にまだおめでとうって言われてない」

(あ、そういうこと……か?)

「ふーん、でもあの勇太があゆみの誕生日を忘れるわけがないよ」

「やっぱそう思うよね! サプライズとかあるのかなぁ」

「それは勇太しか分からないよ~」

 少し含みを持たせたセリフはサプライズがあるのを暗に示しているようなもので。

「えへへー。ちょっとおしゃれしちゃお!」

 トトトと階段を駆け上がるあゆみを見送った私は目が点。

(あれ? あれれ? 解決……した?)

 赤坂母の完璧な答弁によって赤坂君の秘密のサプライズ計画も、あゆみの空虚感も完全に守り切った。切ってしまった。

(時計はもう5時。あと一時間。不安材料はすでに霧消した……)

 読み違い、見落とし、もう材料は揃ってるはずなんだよな……。

 だって例え今赤坂君が帰ってきてあゆみさんを無視し続けても、彼女はサプライズの前フリだと勘違いする気がする。

 それほど母の力は偉大だった。

 純粋にすごいと思う。あれだけ人に安心を与えられる人がいるだろうか。

 作戦はまた振り出しへと巻き戻り、ここからまた始まりか。

 ……まだ時間はある、とりあえず赤坂君が帰ってきてから少し様子見をしよう。

 リビングから望む空は、私があの時刻に見た空と同じ色に染まりつつあった。



 5時半、栞の世界はクライマックスへ。

「ん、ただいー」

「ま。お兄!」

「おーう」

 誕生日の妹のために部活を早退するくらいには妹煩悩な赤坂君がどうやったらあゆみさんを怒らせることができるのか。

「ねぇねぇ」

「ん、ちょっと待って今忙しいんだ……もう少しだけ」

「うん。分かった~」

 もうサプライズがあることは前提に話が進んでいく。

 あゆみは自分の部屋に、赤坂君はリビングにそれぞれ別れる。

「母さん、今日8人くらい来る予定だって」

「8人!? ん、たくさん集めたね」

 思わず大きな声を上げてしまった赤坂母は途端に声をすぼめる。

「おう、そんなに集まるとは思っとらんかったわ」

 照れくさそうに赤坂君は頭を掻く。

(それは無茶苦茶頑張ったんだろうなぁ……)

 私も苦笑する。多分Lineの履歴見たら大変なことになってる。

 きっとこの場にいる誰もが結末はハッピーで終わると確信しているだろう。そう空気が語っている。

 だが、この物語の現ルートは最悪だ。希望が見えようがそれは揺るがない。

 それでも揺るがせなければならない。

「まだいろいろ連絡が大変だ」

 そう言って赤坂君は忙しいことを誇るようにリビングにどっかりと座った。

 またスマホとにらめっこして時にニヤニヤしている。

 しばらくすると、少しおめかししたあゆみが下りてきた。

 化粧こそまだ覚えていないがここぞというときのためにとっておいた服をおろしたのだろう。

 だって値札ついてるし。

「ねぇ、どうこの服似合ってるかなぁ?」

 くるっと一周回って少し長めの丈のクリーム色のスカートをふわっとなびかせる。

「んー」

「ねぇってば」

「ちょっと忙しいから待ってって」

 スマホを持つ腕をブンブンとされるが赤坂君は動かない。

 ここら辺に彼の不器用さが出てる気がする。

「今日くらい私に時間をくれたっていいのに……」

 半泣きになりながらあゆみは部屋に戻ってしまう。

 それに気づいたのか赤坂君はあゆみのことを追って2階に上がっていく。

(サプライズがあると分かっててここまで怒るか? もしかして何かあゆみさんは勘違いをしている可能性がある?)

 赤坂君がスマホを触っているのは実はサプライズの計画中ということを知らない勘違い。

 でもそれだけだと『今日くらい』っていうワードに当てはまらない。

 いくら誕生日だからって明日もあるし明後日もある。

 それにいつも兄が誰より妹を愛していることはあゆみも分かっているはず。

 そんな久しぶりに会った遠距離カップルのようなことを言ったって平時のこの兄妹には当てはまらない。

 だからもう一つ、致命的な勘違いをしている気がするんだ。

 だとしたら、だとしたら……。

 必死に昨日と今日の物語を読み返す。

 私の周りで台詞が踊り、情景が文字となって頭を巡る。

  ”……女か” ”勇太に彼女が”

 昨日の夜解けた誤解を思い出す。

 そしてボロボロと。

(……思い込み、あゆみさんは赤坂君に彼女ができたと思い込んでいる!?)

 確かにあゆみは赤坂君の彼女疑惑についてまだ何も真実を知らない。

 ―――だって幸せだった理由は秘密だから。

 私の前提概念のパズルのピースが一気に崩れ、また復元するように新しいピースが組みあがっていく。

(もしそれが真実だとしたら……本当に誰も救われないじゃない!)

 片や兄は妹の誕生日のためにサプライズパーティを企画し、そのことが原因で事故につながるトリガーを引いた。

 片や妹は彼女との時間を奪わないようにお兄ちゃんっ子を脱却しようと一歩引くことを始め、その感情のすれ違いで事故にあってしまう。

(こんなこと……絶対にあってはいけないっ!)

 そして。

 二階から駆け下りてくる音が聞こえる。

 さあ、決断の時間だ。

 私は残り約10秒の間に何ができる?

 あゆみがドアを開け放ち、あの言葉を宣誓する。

「もう……! お兄なんて知らない!」

 玄関から道路まで5m。

 いつもは安全地帯なその場所は今日だけはレッドソーンで。

 しかし、赤坂家の誰もそんなことは知らない。この場で止めれるのは本当に私だけだ。

 カチりとはまり切ったパズルがすんでのところで私に答えを渡す。

(本当にこれでいいのか?)

 迷っている暇などない、今日何度も復習した”大きな声の出し方”通りに精一杯息を吸い込む。

 目の前に一冊の分厚い本のイメージが現れる。

 その本が一つのページを開き、そこから先のページを千切っていく。そして、


「ちょっと待ちな!!」


 発声と同時に新しい物語が本に差し込まれていく。

 しかし私はこれで何もかも丸く収まるなんて考えていなかった。

 走り出した人間を怒鳴り声で止めれるなんて思ってもみなかったし、止めてその後は?

(無謀だ、苦肉の策にも程がある……)

 この論理的思考力とは程遠い直感にものを言わせた決断の結果は果たして。

 ―――強烈なブレーキ音と飛び出す寸前で尻もちをつく妹と慌てて駆け寄る兄がいた。

「ごめん、ごめん」

 妹を抱きしめ怒涛の勢いで謝り倒す赤坂君。乗用車が再度発進する。

 私が、いや赤坂母がゆっくりと近づいていく。

「あんたらはどっちも馬鹿だねぇ」

 口調も穏やかに、しかし私は感じられる、今にも沸騰しそうな心拍数に。

「それが優先すべきことだったの?」

 妹を事故に追いやるまでして隠したいことだったの? と諭す。

「ごめん……なさい」

「誤って済むなら救急車はいらないよ!」

 ガシッと二人に抱擁をする。お母さんというものは強く、ここでも泣けはしない。

「お母さんとの約束。 ”人を傷つける隠し事はしない” 分かった?」

「うん、ごめん」

 潔く頭を下げる。この家族の愛は本当に固い。

「あゆみも、嫌なことがあったら言えばいいんだよ。お兄ちゃんはあゆみのことを何があっても一番に考えてるんだから」
 
 やっと生気が戻ってきたあゆみが胸の中ですすり泣く。

「でも! でも! お兄に彼女ができて!」

「アハ……ハ、なんでみんなそんな勘違いするかなぁ……」

 問題は複雑に絡み合い難解で、答えはちょうちょ結びを解くように簡単で。

 不器用な兄と天使の妹が互いに互いを思いやった結果の惨事だった。

 ……ミッションコンプリート。

 今回ばかりはドヤ顔でかっこつけたっていいだろう。

 再び意識がぐにゃりと曲がっていく感覚に体を委ねて私はささやかな優越感に囲まれるのだった。




  さて、現実に戻る前に少し不思議な話をしよう。

  今しか語ることのできない不思議な話。

  優柔不断な私がきっぱりと一瞬で最適解を導き出した不思議な話。

  私はあの時正直あゆみさんのことは半ば諦めかけていた。

  答えを出すのが遅すぎた。

  それに、私の思考能力じゃあんなギリギリで呼び止めるなんて考えもできなかった。

  今回はあゆみが止まったからこそよかったが、それこそ本当に乱数だろう。

  最悪の場合あゆみさんも轢かれ、赤坂君の心も救えない。

  YOUは何しにこの世界へ? とテレ東あたりに聞かれてもおかしくない失態を犯すところだった。

  それでもなぜリスクを取ったのか。

  それは私が決断を下すとき私ではない人格が思考を支配していたからだ。

  あの時私は親の怖さを何よりも理解していた。

  云人の教師に囲まれるよりも普段は温厚な親に怒鳴られる方が響くと知っていた。

  親にも教師にも叱られたことはないのに。

  そんなわけかパズルをはめていったもう一人の私はあゆみが止まることに確信にも近い感情を抱いていた。

  そしてなぜか止めたら後は赤坂母がすべて継いでくれる前提で作戦を提示してきた。

  実際すべて継いでくれて事態は二重丸を超えて花丸、収束してからやっと理論を構築。

  そりゃさ、第三者の薄っぺらい言葉よりも誰よりも家族を想う身内の本気の言葉の方が響くよな……。

  今になって私の言葉で……なんて考えてたことを後悔してる。

  そんな私よりも決断力があって、人生経験のある私は一体?

  ……そもそも今回なんで私はこんなにもやる気を出したんだろうね。

  ”栞の世界”という不思議な世界の不思議な話で片付けることもできようが。

  まあとにかく私の記憶はそろそろ消えてしまう。

  もしかしたら私は二重人格なのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

  栞の世界の秘密に、私の能力の秘密に大きくかかわるのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

  ただ、そんな不思議な話があったんだ。覚えたい人は自分の栞にでも書いておいてほしいよ。



  <Current>

 幽霊のはずの私がヒーローになった夢を見た。

 それは長い夢だったが時間の進みは変わらず、いつも通りの朝だ。

 陽気な太陽も、キジバトの鳴き声も狭いマンションの一室には入ってこず、今日も今日で憂鬱な一日が始まる。

 特に話すこともなくいつもより少し早く図書委員を終え、柏崎君と別れる。

 そういえば今日はなぜか柏崎君と顔が合わなかった。なんでだろう。

 別に何もなかったはずなのに、ねぇ?

 疑問形なのは少し自信がないからだがともかく、私に何かある訳がないだろう。

 明るい声が響く咲明町の夕暮れ、六時過ぎ。

 幽霊の私の隣を乗用車が追い越していく。

 何気ないいつもの日常に突然ドクンと心臓が跳ねた。脳髄が刺激された。

「え……?」

 原因不明の涙はうつ病の兆候らしい。

 頬を伝う一筋の光が私の視界をぼやかす。

「え……? え?」

 これは嬉しい涙?

「よくわかんないよ……」

 こんな涙は私の物語のテンプレートにはない。

 事象には必ず原因があって、じゃないと読者に批判されるにきまってる。

 だけど伏線も何もかも無視したこんな稚拙な涙がこんなにも嬉しいなんて。

 明日はとりあえず心理学の本でも読み漁ろうか。

 一歩だけだが、柄にもなくスキップをした。慣れてなかったので足が絡まってたたらを踏んだ。

 正面から仲のいい兄妹が歩いてくる。パーティでも開くのかというくらい大きな荷物を持って。

 私のことを一瞬不思議そうに見るが赤の他人でそのまますれ違っていく。

 毎日が憂鬱だけど今日だけは好きかもしれないな。なんて。

(一章 終わり)